量子コンピュータと暗号|2035年に何が変わるのか【最終回】
最終回は暗号の話です。その前に、前回までのおさらいです。量子ビットは、答えの候補ごとに「矢印」を持っています。長さだけでなく向きがあり、向きの合わない矢印どうしは打ち消し合って消えます。量子コンピュータの計算とは、はずれの矢印を消して、正解の矢印だけを揃えることです。そして、この打ち消し合いが設計できるのは、問題の中に隠れた繰り返しがあるときだけでした。暗号は、その繰り返しがある問題です。
全6回の最終回は、私たちの暮らしにいちばん近い話です。国は2035年を目処に、暗号の切り替えを進めています。
機械はまだ無いのに、なぜいま切り替えるのか。そして私たちは何をすればよいのかをご紹介して、この連載を終わります。
暗号の話を、もう少し
壊す側の話に戻ります。1994年に発表された「ショアのアルゴリズム」という手順を使うと、大きな数を素因数分解する計算が、普通のコンピュータとは桁違いに速くなります。
第2回でご説明したとおり、この手順の正体は「素因数分解を、隠れた繰り返しの周期を見つける問題に書き換えること」です。書き換えてしまえば、あとは矢印がきれいに揃う、量子コンピュータのいちばん得意な形になります。
これは大ごとです。インターネットで使われているRSAという暗号は、「大きな数を素因数分解するのは、事実上不可能なほど時間がかかる」ことを安全の根拠にしているからです。その根拠が崩れます。
ただし、これは理論上の話です。実際の量子コンピュータでこの手順を使って因数分解できたのは、35以下のごく小さな数だけだと2024年の学術的な調査は報告しています。しかもそれは、答えを知ったうえで回路を簡略化したものだという批判もあります。
では、本当にRSAを破るには何が必要か。研究者の見積もりでは、2019年の時点で2,000万個の量子ビットで8時間。2025年には100万個未満で1週間未満にまで下がってきています。
6年で20分の1。ゴールポストは動き続けています。それでも、いま動いている機械は百個台から数百個台です。差はまだ桁違いにあります。
私たちの暮らしに、いちばん近い話
ここからが、この記事でいちばんお伝えしたいところです。
量子コンピュータが暗号を破れるのは、早くても十年以上先と見られています。それなのに、国はもう動き始めています。なぜでしょうか。
「いま盗んで、あとで読む」という考え方があるからです。暗号化された通信を今のうちに記録して保存しておき、将来、解読できる機械ができた時点でさかのぼって読む。この手口は、G7の金融当局の文書でも取り上げられており、日本では金融庁と日本銀行が2024年9月26日に同じ文書を公表しています。
そして2025年11月、内閣官房の国家サイバー統括室が、政府機関などの暗号を新しい方式(耐量子計算機暗号)へ切り替える方針をまとめました。目処は、原則2035年。2026年度中に工程表を作るとされています。
この文書は、時期の見通しについても正直です。暗号が破られる時期を「現時点で予測することは困難」としたうえで、「革新的な技術の発展等により暗号解読が近い将来に実現する可能性は否定できない」と書いています。わからないから動かないのではなく、わからないから早めに動く、ということです。
ここで、読者の方に安心していただきたいことを書きます。
- 個人が、自分で何か暗号を入れ替える必要はありません。切り替えは、パソコンやスマートフォンの基本ソフト、ブラウザ、通信事業者、サービス提供者の側で行われるものです。今回調べた範囲で、国が一般の方に「各自で対応してください」と求めている発表は、ひとつも見つかりませんでした。
- いまの銀行口座や電子マネーが、明日破られるという話ではありません。G7の文書も、金融機関に「動きを見守り、検討を始めること」を求める段階のものです。
- 暗号がすべて破られるわけでもありません。作り直しが必要なのは、インターネットの通信などに使う「公開鍵暗号」——鍵を二つに分け、片方を誰にでも見える形で配る方式——のほうです。もうひとつの「共通鍵暗号」——送る側と受け取る側が同じ鍵を使う方式——は、鍵を長くすれば当面は大丈夫とされています。
- 「量子コンピュータ対応」をうたう個人向けの有料の製品やサービスを、いま急いで買う必要はありません。
したほうがよいことは、ひとつだけです。基本ソフトとブラウザ、アプリを最新に保つこと。新しい暗号は、まさにその更新を通じて配られてきています。量子のためだけでなく、普段のセキュリティ対策としても正しいことです。
「量子」と名のついた話に、ひとつだけ
最後に、正直に書いておきたいことがあります。
「量子」という言葉は、いま商品名にもよく使われています。健康にまつわるもの、投資にまつわるもの、いろいろあります。
今回、消費者庁・国民生活センター・厚生労働省・金融庁・公正取引委員会の発表を調べました。「量子」と名のついた商品を名指しして処分や注意喚起をした発表は、ひとつも見つかりませんでした。ですので、この記事では特定の商品や会社について、何も申し上げません。
同時に、「量子とつく商品はすべて怪しい」というのも誤りです。量子の技術には、医療機器や計測の分野で本物の研究と製品があります。ひとくくりにはできません。
申し上げられるのは、これだけです。
この記事をここまでお読みいただいたなら、量子コンピュータがいまどの段階にあるかは、おわかりいただけたと思います。実機で因数分解できたのは35以下のごく小さな数。方式すら決まっていない。専門家の予測は2か月で覆る。
その段階の技術を根拠に、「すぐに効果が出る」「確実にもうかる」という説明がされていたら、そこは立ち止まってよいところだと思います。
判断がつかないときは、お金を動かす前に、消費者ホットライン「188」にご相談ください。局番なしの3桁で、お近くの消費生活センターにつながります。相談は無料ですが、通話料はかかります。
量子コンピュータと暗号、まとめ(第6回)
- 暗号の解読は理論上はっきり効きます。ただし実機で因数分解できたのは、35以下のごく小さな数だけです。
- 暗号の切り替えは2035年が目処。ただし個人が自分で何かする必要はありません。基本ソフトとアプリを最新に保つ。それだけです。
- 「量子」と名のついた金融商品や健康グッズは、ここまでご紹介してきた量子コンピュータとは関係がありません。おかしいと思ったら、消費者ホットライン188へ。
1984年の実験から40年かけて、ここまで来ました。あと何年かかるのかは、誰にもわかりません。それでも、何が本当で何がまだなのかを分けて見ておけば、次のニュースは少し読みやすくなるはずです。
本稿は執筆時点(2026年9月)の情報です。この分野は動きが速く、内容は変わっていきます。下記の出典元で最新の情報をご確認ください。
参考・出典
- 内閣官房 国家サイバー統括室「政府機関等における耐量子計算機暗号(PQC)への移行について(中間とりまとめ)」2025年11月
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/pqc/pdf/report_202511.pdf - 金融庁「量子コンピュータに関するG7サイバー・エキスパート・グループのステートメント」2024年9月26日
https://www.fsa.go.jp/inter/etc/20240926/quantum_letter.html - 日本銀行(同ステートメント。2024年9月25日付の文書を、9月26日に公表)
https://www.boj.or.jp/intl_finance/meeting/group/gro240926a.htm - 同ステートメントの日本語仮訳(PDF。「いま盗んで、あとで読む」の記述はこの本文にあります)
https://www.boj.or.jp/intl_finance/meeting/group/data/gro240926a.pdf - CRYPTREC「暗号技術ガイドライン(耐量子計算機暗号)2024年度版」
https://www.cryptrec.go.jp/report/cryptrec-gl-2007-2024.pdf - NIST「NIST Releases First 3 Finalized Post-Quantum Encryption Standards」2024年8月
https://csrc.nist.gov/news/2024/postquantum-cryptography-fips-approved - Gidney & Ekerå「How to factor 2048 bit RSA integers in 8 hours using 20 million noisy qubits」Quantum 5, 433 (2021)
https://quantum-journal.org/papers/q-2021-04-15-433/ - Gidney「How to factor 2048 bit RSA integers with less than a million noisy qubits」(2025)
https://arxiv.org/abs/2505.15917 - 「The State of Factoring on Quantum Computers」(実機で分解できた数についての調査)
https://arxiv.org/html/2410.14397v1 - 消費者庁「消費者ホットライン」
https://www.caa.go.jp/policies/policy/local_cooperation/local_consumer_administration/hotline/
このシリーズの記事
- 第1回 量子コンピュータとは?「矢印」でわかる仕組みの基本
- 第2回 量子コンピュータはなぜ速いのか?打ち消し合いという仕掛け
- 第3回 量子コンピュータのよくある誤解3つ|もつれ・冷却・量子ビット数
- 第4回 量子コンピュータの現状|6つの方式と、いまどこまで来ているか
- 第5回 量子コンピュータの用途|何に使える?本命は分子と材料
- 第6回 量子コンピュータと暗号|2035年に何が変わるのか(この記事)
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