量子コンピュータの用途|何に使える?本命は分子と材料【第5回】
第5回は、結局、何の分野で使えるのかです。
先に、いちばん多い行き違いをひとつ。量子コンピュータは「セキュリティのための機械」ではありません。いまの暗号を壊す側です。
そのうえで本命の用途と、私たちの業界ではどうなのかを、調べた範囲でそのままご報告します。
結局、何の分野で使えるのか
ここまで慎重な話が続きましたが、すごいことは、確かにあります。そして「どの分野で役に立つのか」には、はっきりした答えがあります。
先に、いちばん多い誤解をひとつ片づけさせてください。
「セキュリティのための機械」ではありません
量子コンピュータと暗号がよく一緒に語られるので、「セキュリティを強くするための機械」だと思われることがあります。
逆です。量子コンピュータは、いまの暗号を「壊す側」です。
最終回でご紹介する「2035年までに暗号を切り替える」という話は、壊される側が守りを固める話であって、量子コンピュータが守ってくれるわけではありません。
紛らわしい言葉が二つあるので、分けておきます。
- 耐量子暗号:量子コンピュータでも破られにくい、新しい暗号の作り方。普通のコンピュータで動きます。いま世界で切り替えが進んでいるのはこちら。
- 量子暗号(量子鍵配送):光の粒の性質を使って鍵を配る、専用の設備が要る技術。量子コンピュータとは別の技術です。
どちらも「量子コンピュータの使い道」ではありません。
本命は、分子と材料のシミュレーションです

第3回でご説明したとおり、分子の中の電子も矢印を持っています。だから分子を普通のコンピュータで正確に計算しようとすると、量子ビットを再現しようとしたときと同じ爆発が起きる。ならば量子の機械で扱おう、というのが、そもそも量子コンピュータが考えられた理由でした。
どういう役に立つのか。よく挙げられる例をひとつ、具体的にご紹介します。
肥料の原料になるアンモニアは、ハーバー・ボッシュ法という方法で作られています。400〜600度、100〜200気圧。大量のエネルギーを使う工程です。
ところが、同じことを常温・常圧でやっている生き物がいます。マメ科の植物の根につく根粒菌です。「ニトロゲナーゼ」という酵素が、空気中の窒素からアンモニアを作っています。畑をやっている方にはおなじみの話だと思います。
この酵素がどうやっているのか、まだ解明されていません。電子のふるまいが複雑すぎて、いまのコンピュータでは計算しきれないからです。2017年の論文は、量子コンピュータならこれを解き明かせる可能性があると論じています。
ちなみに人間の側も、手をこまねいてはいません。同じ科学技術振興機構の記事によれば、2019年に西林教授らのグループが、常温・常圧でアンモニアを作る方法を実現しています。量子コンピュータを待たずに進む道も、ちゃんとあります。
もし解明されれば、常温常圧で肥料を作る道が開けるかもしれません。これが、量子コンピュータに期待されていることの、いちばんわかりやすい形です。
実際、専門家の予測でも最初に本格応用するのは化学メーカーとされ、最初の用途は触媒の探索——化学反応を助ける物質を探すこと——だろうと見られています。化学メーカーはすでに分子の計算にスーパーコンピュータを使っているので、その補助として入れやすいからです。
ただし、ここでも正直に。2023年に『Nature Communications』に載った論文の結論は、「指数的な量子の優位があるという証拠は、まだ見つかっていない」でした。著者にはGoogleの研究者も含まれます。しかもこの論文が調べたのは、2017年の論文と同じ酵素です。同じ題材で、6年後に慎重な結論が出た。本命と目されている分野でも、まだその段階です。
分野ごとに、どこまで来ているか
今回調べた範囲で、分野ごとに整理するとこうなります。
| 分野 | いまの状況 |
|---|---|
| 分子・材料のシミュレーション (触媒、電池、薬) | 本命とされる。専門家も最初の本格応用は化学メーカーと予測。ただし「指数的な優位の証拠はまだない」とする2023年の論文もある |
| 暗号の解読 | 理論上は効くことがはっきりしている。ただし実機で分解できたのは35以下のごく小さな数 |
| 組合せ最適化 (配送、工程) | 期待されているが、交通流の実験では普通のコンピュータ用の市販ソフトのほうが良い答えを出した |
| 金融のリスク計算 | 期待されているが、速くなる度合いが小さく割に合わない可能性が指摘されている |
| AI・機械学習 | 12種類を160のデータで比べた研究では、既存の普通のAIのほうが軒並み成績が良かった |
| 日常の事務作業 (見積、集計、文書) | 効きません。隠れた繰り返しがなく、分子でもないため |
私たちの業界は、どうか

建設や土木、砕石の分野はどうなのか。気になるところですので、調べました。
今回調べた範囲では、見つかりませんでした。
セメントやコンクリートの材料研究で量子コンピュータを使った例も、確認できていません。建設分野でブロックチェーンや量子技術が日常的に使われている例も見つかりませんでした。
理屈のうえでは、セメントの水和反応も、骨材と結合材の界面も、突き詰めれば分子の話です。将来つながる可能性はあります。ですがいまは、そういう研究を確認できていない。それが正直なところです。
私たちの現場でいま効いているのは、量子ではなくAIとデジタル技術のほうです。ドローンによる測量、3次元の設計データ、遠隔での立会い。そちらは、もう動いています。
「万能の速いコンピュータ」ではありません
表を見ていただくとわかるとおり、効く分野ははっきり限られています。ここははっきり申し上げます。
見積書も、日報も、経理の集計も、量子コンピュータでは速くなりません。表計算、文書作成、動画、ウェブ閲覧。日常の仕事のほとんどは、関係がありません。
量子コンピュータは、いまのコンピュータの上位互換ではありません。特定の形をした計算にだけ効く、専用の装置です。普通のコンピュータの隣に置いて、向いた仕事だけを任せる。そういう位置づけになります。
置き換えではなく、持ち場が違う。そう考えるのが、いちばん近いと思います。
表に入れた慎重な報告のうち、二つだけ補足します。どちらも「推す側」が自分で出した結果なので、重みが違います。
- 総当たりの探索について、Googleの研究者自身が「その程度の速さでは、誤り訂正の手間を考えると割に合わない」と論文に書いています。
- 量子AIの比較研究で古典のほうが良い成績を出したという報告は、量子ソフトを売っている会社自身の研究者によるものです。
量子コンピュータの用途、まとめ(第5回)
- 「セキュリティのための機械」ではありません。いまの暗号を壊す側です。「耐量子暗号」も「量子暗号」も、量子コンピュータの使い道ではありません。
- 本命は分子と材料のシミュレーション。専門家も最初の本格応用は化学メーカー、用途は触媒の探索と予測しています。
- 見積書も日報も速くなりません。専用の装置であって、パソコンの置き換えではありません。建設・砕石の分野での活用例も、今回は見つかりませんでした。
最終回は、私たちの暮らしにいちばん近い話——暗号と2035年をご紹介します。
本稿は執筆時点(2026年9月)の情報です。この分野は動きが速く、内容は変わっていきます。下記の出典元で最新の情報をご確認ください。
参考・出典
- Lee ほか「Evaluating the evidence for exponential quantum advantage in ground-state quantum chemistry」Nature Communications 14, 1952 (2023)
https://www.nature.com/articles/s41467-023-37587-6 - Reiher ほか「Elucidating reaction mechanisms on quantum computers」PNAS 114(29), 7555-7560 (2017)(ニトロゲナーゼの解明への応用)
https://www.pnas.org/doi/10.1073/pnas.1619152114 - R. P. Feynman「Simulating Physics with Computers」International Journal of Theoretical Physics 21, 467-488 (1982)(1981年にMITで開かれた第1回 Physics and Computation 会議での講演にもとづく論文。量子コンピュータの着想)
※下記はワイツマン科学研究所の講義資料で、論文そのものではなく内容を紹介したものです
https://www.wisdom.weizmann.ac.il/~naor/COURSE/feynman-simulating.pdf - 日経クロステック「最初に量子コンピューターを本格応用するのは『あの業界』、世界の専門家が予測」
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01138/121500003/ - 科学技術振興機構「画期的なアンモニア合成法」(ハーバー・ボッシュ法とニトロゲナーゼ)
https://www.jst.go.jp/seika/bt2020-04.html - Bowles ほか「Better than classical? The subtle art of benchmarking quantum machine learning models」
https://arxiv.org/abs/2403.07059 - Babbush ほか「Focus beyond Quadratic Speedups for Error-Corrected Quantum Advantage」PRX Quantum 2, 010103 (2021)
https://arxiv.org/abs/2011.04149
このシリーズの記事
- 第1回 量子コンピュータとは?「矢印」でわかる仕組みの基本
- 第2回 量子コンピュータはなぜ速いのか?打ち消し合いという仕掛け
- 第3回 量子コンピュータのよくある誤解3つ|もつれ・冷却・量子ビット数
- 第4回 量子コンピュータの現状|6つの方式と、いまどこまで来ているか
- 第5回 量子コンピュータの用途|何に使える?本命は分子と材料(この記事)
- 第6回 量子コンピュータと暗号|2035年に何が変わるのか
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