北上川を知る②|「死の川」からの再生―松尾鉱山と北上川の水質汚染の歴史
石名坂コラム「北上川を知る」第2回です。前回は、北上川が岩手町「弓弭の泉」から始まる川であることをご紹介しました。今回は、その 北上川 がかつて「死の川」と呼ばれるほど深刻な水質汚染に見舞われ、半世紀近い歳月をかけて清流へと再生してきた歴史をたどります。
東洋最大の硫黄鉱山「松尾鉱山」
北上川の水質汚染の発端は、支流・赤川の上流にあった「松尾鉱山」です。岩手県八幡平の中腹、標高740〜1,030m付近に位置し、1882年(明治15年)に硫黄鉱床の大露頭が発見されて以来、東洋最大級の硫黄鉱山として発展しました。最盛期には山中に1万人を超える人々が暮らす一大集落が形成され、「雲上の楽園」とも呼ばれるほどの賑わいを見せていたといいます。
「死の川」と呼ばれた時代|強酸性水による汚染の拡大
大正時代に入ると、松尾鉱山から流出する鉱毒水によって、支流の赤川が強い酸性水に汚染されるようになりました。汚染は次第に本流の北上川にも広がり、1933年(昭和8年)頃からは強酸性水の問題が社会的にも大きく取り上げられるようになります。当時の北上川は茶色く濁り、昭和20年代後半には魚がほとんど生息できない状態に。地域では「死の川」と呼ばれ、人々が水辺から遠ざかるほど深刻な状況が続きました。
閉山後も続いた汚染|義務者不存在鉱山という壁
1960年代以降、公害規制の強化に伴い、重油の脱硫工程で得られる安価な回収硫黄が市場に出回るようになったことで、硫黄鉱山としての採算は悪化。1971年(昭和46年)には岩手県議会が国に対して「北上川水質汚濁防止の恒久対策」を請願し、同年11月には林野庁・通商産業省・建設省・自治省・環境庁による五省庁会議が設置されるなど、国レベルでの対策検討が始まりました。そして1972年(昭和47年)、松尾鉱山はついに鉱業権を放棄し、事実上閉山。運営会社の松尾鉱業も経営破綻し、汚染源となった鉱山には対策を講じる事業者が存在しない「義務者不存在鉱山」という状態が生まれました。
閉山しても、山から湧き出る強酸性の坑廃水は止まりません。事業者不在のまま汚染源が残された形となり、1972年5月には建設省が暫定的な中和処理を開始。応急的な対応をしながら、抜本的な解決策の検討が続けられました。
新中和処理施設による再生|今の清流・北上川へ
1976年(昭和51年)、恒久的な対策として新しい中和処理施設の建設が決定します。「鉄バクテリア酸化・炭酸カルシウム中和方式」を採用したこの施設は、pH2程度という強い酸性で鉄やヒ素を多く含む坑廃水を中和処理する仕組みです。1982年4月(昭和57年)には岩手県が維持管理を引き継ぎ、本格的な処理体制が確立しました。
この施設は40年以上にわたり稼働を続け、2006年(平成18年)には省エネ化のための実証試験設備を取り入れるなど、運用コストの削減にも取り組んできました。こうした地道な取り組みの積み重ねにより、北上川の水質は着実に改善。今では冬には白鳥が飛来し、秋には鮭が遡上する、東北地方を代表する清流のひとつとして知られるまでに回復しています。

まとめ
明治期に発見された松尾鉱山は、東洋最大の硫黄鉱山として栄えた一方、鉱毒水によって北上川を「死の川」に変えてしまいました。閉山後も汚染源が残るという困難な状況の中、国・県による恒久的な中和処理体制が整えられ、半世紀近い時間をかけて清流としての姿を取り戻しています。次回は、この北上川が江戸時代から幾度も繰り返してきた水害の歴史と、五大ダムによる治水事業についてご紹介します。
※本稿は公開されている資料・情報をもとに構成しています。詳細な数値・年号は出典元の一次資料をご確認ください。
参考・出典
- 岩手県「概要(旧松尾鉱山)」
- 独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)「旧松尾鉱山新中和処理施設の運営管理」
- 独立行政法人エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)「北上川の清流を守り続けた旧松尾鉱山新中和処理施設 40年を記念し環境新時代を考えるシンポジウムを開催」


