後藤新平の生涯③|満鉄総裁・逓信大臣・内務大臣時代
「後藤新平の生涯」シリーズ第3回です。第2回では、似島検疫所での実務手腕から台湾民政長官として「生物学の原則」に基づく統治を行った時代をご紹介しました。今回は、台湾を離任した後藤新平が満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣を歴任し、満州経営と都市計画の思想を深めていく時代をご紹介します。
満鉄初代総裁へ — 「文装的武備」の経営構想
台湾を離任した後藤新平は、1906年(明治39年)11月13日、設立されたばかりの南満洲鉄道株式会社(満鉄)の初代総裁に任命されます。後藤が掲げたのが「文装的武備」という経営構想でした。「陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」という言葉に表れているとおり、単なる鉄道会社ではなく、鉄道経営を表看板としながら、学校・病院・炭鉱経営、奉天・新京といった都市建設、大連港湾整備までを一体的に進める、広範な地域経営組織として満鉄を構想したのです。(出典: rekishikaido「後藤新平〜台湾近代化、満鉄初代総裁、東京復興の父」)
1907年には、清国皇室への礼問で北京を訪れた際に袁世凱と会見し、日中の連携を説く「箸同盟」を提唱しています。武力によらず、鉄道と都市というインフラを通じて地域を治めるという、台湾統治で培った発想がここでも貫かれていました。
満鉄調査部 — 「日本が生んだ最高のシンクタンク」
後藤新平の発案により、1907年4月に設けられたのが満鉄調査部です。満鉄における調査活動は、鉄道経営・産業開発・付属地行政と並ぶ「四大業務」の一つに位置づけられ、当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つとも評されています。台湾での土地・人口調査を基盤に政策を組み立てた手法を、満州という、より広大で複雑な地域経営にも応用したものでした。(出典: 満鉄調査部「Wikipedia」、SSAITSブログ「後藤新平による満鉄の経営戦略」)
逓信大臣・鉄道院総裁 — 広軌化論争
1908年7月13日、後藤新平は満鉄総裁を退き、翌14日に第2次桂内閣の逓信大臣として入閣、同年12月5日には鉄道院総裁も兼任します。ここで後藤が取り組んだのが、日本本土の鉄道を国際標準である広軌(1,435mm)に改築する構想でした。1910年に鉄道院が改軌方針を決定し、1911年には「広軌鉄道改築準備委員会」を設置、東京〜下関間に2億2千万円を投じて12年かけて改軌するという具体的な検討にまで進みます。(出典: Merkmal「日本の鉄道網をつくった重要人物」)
しかし1911年8月30日、桂内閣瓦解により後藤は逓信大臣・鉄道院総裁を免ぜられます。1916年10月9日、寺内内閣で内務大臣兼鉄道院総裁として再び広軌化に取り組みますが、寺内内閣の事実上の与党であった政友会の原敬が強く反対し、1919年3月には狭軌のまま据え置く方針が閣議請議されました。地方への鉄道網拡大を優先する原敬との路線対立の末、後藤が掲げた広軌化構想は実現しないまま終わっています。(出典: 日本の改軌論争「Wikipedia」)

内務大臣時代 — 都市計画への布石
内務大臣として、後藤新平は都市そのものの近代化にも力を注ぎました。1917年、内務大臣在任中に「都市研究会」を設立します。これはのちに「都市計画協会」へと発展し、都市計画法制定に向けた気運を高める母体となりました。都市計画法は後藤の内務大臣退任後の1919年に制定されますが、その実現には、内務大臣を2度務めた後藤新平の見識と主導が大きく寄与したと評価されています。(出典: 事業構想オンライン「都市計画の父 後藤新平」)
1918年4月23日には外務大臣に転任しますが、同年9月29日の寺内内閣総辞職により退任。その後1920年12月17日に東京市長へ転じ、いよいよ都市経営の実践の舞台へと進んでいくことになります。
まとめ
満鉄総裁として「文装的武備」の構想のもと満州経営の基盤を築き、逓信大臣・鉄道院総裁として広軌化という壮大な構想に挑み、内務大臣として都市計画への布石を打った後藤新平。実現しなかった構想も少なくありませんが、その視野の広さは「大風呂敷」と評されながらも、後の日本の都市政策に大きな影響を残しました。次回は、東京市長就任と関東大震災からの帝都復興という、後藤新平の集大成ともいえる時代をご紹介します。
※本稿は公開されている資料・記録をもとに構成した時点情報です。年号・日付は出典元の一次資料をご確認ください。
参考・出典
- 奥州市「後藤新平 略年譜」
- 歴史街道「後藤新平〜台湾近代化、満鉄初代総裁、東京復興の父」
- Wikipedia「満鉄調査部」
- Merkmal「日本の鉄道網をつくった重要人物!広軌化を巡って後藤新平と対立した『原敬』」
- Wikipedia「日本の改軌論争」
- 事業構想オンライン「都市計画の父 後藤新平」


