後藤新平の生涯②|似島検疫所と台湾統治「近代化の父」

「後藤新平の生涯」シリーズ第2回です。第1回では水沢での誕生から内務省衛生局長就任までをご紹介しました。今回は、日清戦争後の検疫事業での実績を経て、台湾統治の近代化に取り組んだ時代をご紹介します。

世界最大級の検疫所を2か月で — 似島検疫所

1895年(明治28年)4月1日、後藤新平は臨時陸軍検疫部事務官長に任命されます。日清戦争から帰還する大量の兵員をコレラなどの伝染病から守るため、後藤は広島県の似島(にのしま)に検疫所の建設を指揮しました。総建坪22,660坪・401棟という大規模施設を、わずか2か月の突貫工事で完成させ、1895年5月30日に完成、6月1日に開所しています。(出典: 後藤新平記念館「後藤新平 絵物語」)

似島検疫所では、消毒した艦船687隻・総人員232,346人を処理し、うちコレラ患者は369人にのぼりました。この検疫事業の規模と迅速さは国際的にも評価され、当時のドイツ皇帝が「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島の検疫所には負けた」と述べたと伝えられています。同時期には彦島検疫所(下関市)・桜島検疫所(大阪市)も整備されました。(出典: 後藤新平記念館「後藤新平 絵物語」)

この功績が評価され、後藤新平は1895年9月7日に内務省衛生局長に再任されます。前回ご紹介した局長経験に加え、大規模な検疫事業を実際にやり遂げた実績が、次の台湾統治という大舞台へとつながっていきました。

台湾総督府民政局長へ — 児玉源太郎との出会い

後藤新平は1896年4月14日に台湾総督府衛生顧問嘱託となり、同年6月に台湾へ初めて赴任します。その後1898年3月2日、児玉源太郎が第4代台湾総督に就任したのに伴い、後藤新平は台湾総督府民政局長に任命されました。同年6月20日には「民政長官」へと改称されています。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

「生物学の原則」による統治

後藤新平の台湾統治を特徴づけるのが「生物学の原則」という考え方です。社会の慣習や制度は、生物のように理由があって形づくられたものであり、日本本土のやり方をそのまま台湾に移植すれば強い反発を招く、という発想に基づいています。後藤はまず土地・人口の調査事業に着手し、耕地や地形、台湾人の生活・風土を丹念に把握したうえで、経済改革とインフラ整備を進めました。(出典: rekishikaido「後藤新平〜台湾近代化、満鉄初代総裁、東京復興の父」)

インフラ整備と衛生政策

民政長官として、後藤新平は台湾縦貫鉄道の敷設、基隆港の築港、都市間を結ぶ道路網の整備、上下水道の設置など、大規模なインフラ整備を推進しました。この結果、台北は当時の東京を凌ぐとも評された近代都市へと生まれ変わっています。(出典: rekishikaido「後藤新平〜台湾近代化、満鉄初代総裁、東京復興の父」)

衛生面では、清朝統治時代から台湾社会に根付いていた阿片の問題に取り組みました。強制的な禁止ではなく、阿片・塩・樟脳を対象とする専売制度を導入し、価格を段階的に引き上げることで、財政の自立を図りながら緩やかに阿片撲滅を進めるという現実的な手法を取っています。1899年11月8日には鉄道部長、1901年6月1日には専売局長も兼任し、統治の実務を一手に担いました。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

台湾離任と「近代化の父」という評価

1902年6月13日には欧米視察へ出発、1903年11月20日には貴族院議員に勅選されるなど、後藤新平の活躍の場は台湾統治にとどまらず広がっていきます。1906年4月11日に男爵を授爵し、同年10月3日に台湾を離任しました。約8年半にわたる台湾民政長官としての功績により、後藤新平は今も台湾で「近代化の父」と呼ばれています。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

まとめ

似島検疫所での実務手腕、そして「生物学の原則」に基づく台湾統治。後藤新平は、現地の実情を丹念に調査したうえで政策を組み立てるという一貫した姿勢で、大きな成果を残しました。次回は、台湾を離任した後藤新平が初代満鉄総裁、逓信大臣、内務大臣を歴任し、満州経営と都市計画の思想を深めていく時代をご紹介します。

※本稿は公開されている資料・記録をもとに構成した時点情報です。年号・日付は出典元の一次資料をご確認ください。

参考・出典

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