後藤新平の生涯①|水沢の生い立ちから内務省衛生局長へ

岩手県出身の政治家・後藤新平は、医師から内務官僚、台湾民政長官、満鉄総裁、東京市長を経て関東大震災の復興を指揮するなど、近代日本を語るうえで欠かせない人物です。今回から5回にわたり、後藤新平の生涯と功績を出典とともにたどるシリーズをお届けします。第1回は、水沢での誕生から内務省衛生局長に就任するまでの前半生をご紹介します。

水沢での誕生と幼少期

後藤新平は1857年(安政4年)6月4日、陸中国胆沢郡塩釜村(現在の岩手県奥州市水沢区)の水沢藩士の家に生まれました。1859年3月には水沢大火に見舞われ、増長寺など町の大部分が焼失する出来事もあったと記録されています。幼少期から漢学の素養を身につけており、1864年3月には武下節山の家塾で漢学修学を始めています。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

1867年2月には留守家の奥小姓となり、1869年9月には県庁の学僕(書生として仕えながら学ぶ立場)となるなど、若くして地域社会の中で学びと奉公を重ねる日々を送っていました。1871年2月には初めて上京し、太政官少史のもとで学僕を務めています。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

須賀川医学校への遊学と医師への道

1873年5月、後藤新平は福島県須賀川へ遊学し、1874年2月に須賀川医学校へ転入します。1875年7月には福島県病院の六等生となり、月給3円で医師としての第一歩を踏み出しました。1876年8月には名古屋に移り、愛知県病院の三等医を拝命。翌1877年9月15日には「医術開業免状」の交付を受け、正式に医師として認められています。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

24歳で病院長兼医学校長に

愛知県での医師時代、後藤新平は次第に頭角を現していきます。1878年10月には健康警察医官の設置を建白し、1879年12月には愛知愛衆社を設立。1880年5月には公立愛知病院長兼医学校長心得に、1881年1月には24歳の若さで正式に愛知県病院長兼愛知医学校長に就任しました。(出典: 厚生労働省「伝説の医系技官 後藤新平」、奥州市「後藤新平 略年譜」)

同じ1881年には「聯合公立医学校設立」の建白も行い、私塾「対育舎」を開設するなど、単なる臨床医にとどまらず、医療制度・教育の仕組みそのものを構想する姿勢がすでに表れていました。

後藤新平 前半生の歩みインフォグラフィック。1857年陸中国胆沢郡塩釜村(現岩手県奥州市)に誕生、1874年須賀川医学校に転入、1877年医術開業免状取得、1881年24歳で愛知県病院長兼愛知医学校長に就任、1882年内務省衛生局に採用、1892年内務省衛生局長に就任という年表を図解

内務省衛生局へ — ドイツ留学を経て局長に

1882年2月、後藤新平は内務省衛生局の御用係に採用され、地方の医師から中央官庁へと活躍の舞台を移します。1885年6月25日には衛生局第二部長に就任。その後ドイツへ留学し、当時最先端であった衛生行政・医学を学びました。留学を経て、1892年11月17日に内務省衛生局長に正式就任します。(出典: 奥州市「後藤新平 略年譜」)

水沢の一士族の家に生まれた後藤新平は、医師としての臨床経験と、ドイツ留学で得た近代衛生行政の知見を併せ持つ人物として、この後、日清戦争後の検疫事業や台湾統治といった、より大きな舞台へと進んでいくことになります。

まとめ

後藤新平は、水沢藩士の家に生まれ、須賀川医学校での学びを経て愛知県で医師・病院長として頭角を現し、内務省衛生局長にまで昇りつめました。次回は、日清戦争後の検疫事業での実績を経て台湾民政長官に就任し、台湾統治の近代化に取り組んだ時代をご紹介します。

※本稿は公開されている資料・記録をもとに構成した時点情報です。年号・日付は出典元の一次資料をご確認ください。

参考・出典

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